改装をはじめて気づいたことあれこれ

ikasamaya2005-12-05

■家の改装をすすめるにあたって、今まで考えてこなかったことを考え始めた。
■家を改装する場合、まず、既存の、目に見えている場所を壊さなければならない。つまり、解体し撤去しなければ、改装が始まらない。
■これはもちろん当たり前のことだ。だが、今あるものに素直に付け加えていくのではなく、余計なものを取り外して、新しく何かを足したりそのままにしたり塗ったり塗らなかったりする。
■裏を返せば、家にはかなりの余計なものがくっついており、人はそれを取り外せるということである。
■たとえば床下を剥がすとする。すると、基礎と床のあいだに、床下という空間があることがわかる。天井面をはがすと、2Fの床とのあいだに天井裏という空間があったことに気づく。
■今日はじまった2Fでいえば、意味のわからない垂れ壁がそれだ。空間を仕切るためだけに、10cmもの厚さの空間が、壁としてくっついていたのである。しかもその厚みは、ボードとボードで挟まれたがらんどうである。
■ぼくはその空間を、本当に無駄なものだと思い、できるだけ取り除いてほしいと考えた。そして、梅林の家のことを思い出した。あの、丸洗いできそうなステキな家である。
■あの家を見て感動した理由は、壁が薄いことへの驚きにあるのではなく(もちろん、物理的にあんな薄い壁でできていることは驚嘆すべきだけど)、あの薄さにまで「至ってしまったこと」にあるのではないかと思った。
■部屋にいて、内側から余計な空間を押し広げていくと、自ずから外壁にぶつかる。ぶつかるというか、内壁と外壁が一体化してしまう。
■そのとき、壁は単なる厚みでしかなくなり、壁と壁がつくっていた「余計な空間」は消失する。構造や設備を技術的にクリアできるならば、その幅を限りなく圧縮したい。そういう欲望が沸くのは自然だ。
■このとき壁はただの「表面」になる。梅林の家は、平面を組み合わせるだけで立体を作ってしまった、つまり「表面」だけでできあがった建築だ。あの家のすごさは「薄さ」ではなく、それでもなお壁でありつづけるあの「表面」のあり方なのだと思う。
■そんなことを、厚みだらけの自宅の改装を眺めていて考えた。10:00から仕事。